移動の道すがら、とても気になる形をした車に遭遇しました。
このバッジ以外に手がかりはなかったので後で調べてみると、アンフィニのMS-8という車種でした。
これぞ流麗
この後ろ姿を見て思わず、「これぞ流麗」。
「これぞ」と考えてしまったということは、「これではない」流麗に触れていたことを意味します。思い返すと、自動車雑誌の新車インプレッションで自動車評論家の方々が使う「流麗」という言葉にやや違和感を抱いていたのは事実です。
流麗の定義
「流麗」という言葉の定義は、デジタル大辞泉によると「よどみがなく美しいさま。詩文・音楽などがなだらかでうるわしいさま。」とあります。
「美しい」と「うるわしい」は主観に左右されるとしても、少なくとも「流麗」にはよどみがあってはいけませんし、なだらかでないといけないことを意味します。雑誌を読んでいて「そんなに角張って刺さりそうな車が流麗?」と感じたことはないでしょうか。
また、「流麗」が英語になるとその字義通り、”flowing”や”elegant”、”graceful”が使われます。つまり、「流」れるようで「麗」しいさまを指しますから、やはりマッチョなデザインの車を語るのに「流麗」が使われると、どうも引っかかってしまいます。
自動車が流麗であるとは?
物凄くアグレッシブでいきりたつようなボディラインが「流麗」とされていたり、複雑な面構成を駆使して鼻息の荒そうなデザインが「流麗」とされていたりと、自動車業界的な流麗というのはとりあえず1,000万円を超える高級車であれば気軽に使われるんだろう、そんな具合に見ていました。実際その通りなのかもしれません。
しかし、アンフィニのこのMS-8を見ると、
これこそが流麗でないかと思わずにはいられません。
もっとも、引っかかりを覚える流麗の使い方をしているのはあくまで第三者であって、デザイナーの方自身が語る言葉に違和感を覚えたことはありません。
さいごに
ということで、私がMS-8を知る入口となったのはその後ろ姿の流麗さですが、調べてみるとルーフに太陽電池を装備して室内ベンチレーションをおこなうなど、経済成長を謳歌していた時代の余韻、余裕が感じられます。そういう時代だったからこそ、このようなデザインが生まれ得たのでしょうか。
ともかく、この車をぴっかぴかに磨いて神宮外苑の銀杏並木に赴けば、きっと映り込みが絵になるだろうし、きっとその映り込みでますます流麗さが際立つだろう、そう感じた一台です。
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